大和朝廷と宗像一族の関係と歴史は深く長く、多くの記録が残されています。

 

【1】仲哀天皇の時代に「神功皇后」が三韓征伐の直前に来宗した時、宗形氏が宗像大神に神助を祈願。

【2】雄略天皇が新羅に親征しようとするも宗像三女神のお告げを受け中止する。

【3】645年、大化の改新により、国郡制が敷かれ、宗形氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主の兼任を任ぜられた。

【4】”天武天皇”は宗像(胸形)一族尼子娘(あまこのいらつめ)”を妃とする。アマコ=海人の子の意味で、宗像氏の娘にふさわしい名と云えます。胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の子である尼子娘は、天皇の妃となり高市皇子(たけちのみこ)を出産(654年)。

※高市皇子:壬申の乱(672年)には、天武天皇に従い功をなす。持統天皇が即位すると大政大臣となり天皇を補佐し藤原京の建設に力を注いだ人物。歌人としても知られ『万葉集(巻2 156~158 高市皇子作の十市皇女への挽歌、第2 199~202番 柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌 )にも歌が載録されています。高松塚古墳の被葬者が高市皇子との説もある。

※天武天皇の命で日本最古の歴史書「古事記」の編纂が為され、稗田阿礼(ひえだのあれ)も携わった。妃の故郷である”宗像”についても詳しく記述されている。

【5】767年、宗形深津の夫人に「竹生王」という皇族が降家。

 

※後世、宗像と称するが特に9世紀以前は宗像とは書かず、胸肩・胸形・宗形等々の表記を用いていた。